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「呪われた兵士たち」を記憶に留める国家記念日

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「戦争は終わった(……)。私たちは、完全に自立・独立し、公正に統治されたポーランド国以外の場所での生活を望まない。(……)私は諸君に対し、ここに最後の命令を下す。国家の全面的独立を回復すべしとの精神の下、さらなる努力と活動を行うのだ」――1945年に、国内軍最後の司令官レオオポルト・オクリツキ(変名「小熊」)大将は、こう書いています。指揮下にあった兵士の多くは司令官のことばに従い、第二次世界大戦後も武器を捨てませんでした。真の意味で自由な祖国を勝ち取るための戦いを続けたのです。

1945年のポーランド情勢は困難でした。テヘラン、ヤルタ、ポツダム会談の決定は、事実上、欧州を東西の影響圏に分裂させる結果をもたらしました。1944年樹立のポーランド政府は選挙によって生まれたのではなく、ソ連政府の傀儡でした。ヤルタ会談の決定に従って1947年に実施された国会選挙の結果は、ソ連内務人民委員部の政治警察などの力で、操作されました。

独立地下運動の兵士たちは、新政府に武力抵抗を行う決意を固めていました。今日彼らは、「呪われた兵士たち(第二次世界大戦後親ソ政権が成立したポーランドで、反共産主義的独立運動に従事し、政府に抵抗した地下組織の兵士)」と呼ばれています――1989年にポーランドが全面的自立を取り戻すまで、ポーランド人民共和国政府は、彼らの活動を犯罪行為と認め、同時に、彼らが特にスターリン時代に被った弾圧には沈黙を守りつづけたからです。最初の反共産主義的武力組織は1943年に結成されていましたが、上から暴力的に押し付けられた権力に抗する、最も激烈な武力抵抗は1945年に起こります。戦後のポーランドにおいて、その後数年の間に、さまざまな地下組織で活動した人々の数は、20万人に上ると推定されています。地下運動活動家は、ポーランド国民に対する、外国からの意志の押し付けを許容しませんでした。彼らの目的は、ポーランドにおいて真の意味で自由で民主的な選挙を行う、というヤルタ会談での決定を履行させることでした。

「呪われた兵士たち」は、戦闘で生命を落としただけではありません。彼らの多数は刑務所に監禁され、拷問を受けて虐殺されました。判決は民主主義的な基準からかけ離れた方法で下されたものでした。ソ連のラーゲリ送りになった人たちもいます。ドイツに協力したという、虚偽の嫌疑をかけられて有罪を宣告されるのもしばしばでした――第二世界大戦中、地下組織でナチス占領軍との戦闘に積極的に加わっていたにもかかわらずです。

反共産主義的地下運動の兵士たちの大多数は、1947年2月に投降しました。ポーランド人民共和国の終焉に至るまで、変名を使って隠れつづけることを余儀なくされた人々も多い。最後の「不屈の兵士」ユゼフ・フランチャク(変名ラルシ)が政府軍に包囲されて射殺されたのは、1963年の秋でした。

ポーランド人民共和国政府は、一貫して、国民の集合的記憶から、反共産主義的地下運動を消去させようと、努めてきましたが、ポーランド人は「呪われた兵士たち」のことを忘れませんでした。この用語が誕生したのは1990年代のこと、当時は、こうした史実について公に発言し研究することがようやくできるようになっていました。私たちは、最後の「自由と独立」集団中央管理部の7名がモコトゥフ刑務所で処刑された日を記念して、2011年から、「『呪われた兵士たち』を記憶に留める国家記念日」の行事を執り行っています。彼らの生涯は、自由への不屈の熱望と、自由のために人間が支払う大きな代償についての物語です。

 

ポーランド外務省広報局

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