アンジェイ・パヌフニク Andrzej Panufnik

アンジェイ・パヌフニク Andrzej Panufnik

アンジェイ・パヌフニク

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Andrzej Panufnik, fot. © Camilla Jessel Panufnik FRPS

こちらの文章はアンジェイ・パヌフニクのNINATEKAがプロデュースした映像の翻訳です。パヌフニクの音楽と映像はこちらでご覧できます:http://ninateka.pl/kolekcje/panufnik

 

「私がなぜポーランドを出国することになったのかお話ししたいと思います。主要因は政治的活動を強いられ続けたことにありました。私は様々な委員会の一員として自分の主義に反する政治的催しへの参加を強制されていたのです。私の最大の望みは持てる力の総てを創作活動に捧げることでしたが、それは思想や信条の自由が完全に保障されている環境においてのみ可能なことでした」――アンジェイ・パヌフニクは1954年、ラジオ・フリー・ヨーロッパの番組でポーランドからの逃避行についてこのように語った。当時39歳、ポーランドの有力な現代作曲家の中でも揺るがぬ地位にあり、また国際的活躍の展望も開けていた。この全てが、亡命という人生において最重要かつ困難を極めた決断によって失われることになってしまったのだ。後年彼はこのように語っている――「ポーランドでは私は何者かでいられたけれども、英国ではすっかり何者でもなくなってしまったのです」。

亡命はチューリヒでの収録の仕事を隠れ蓑にして計画された。疑念を抱かれないようにと手持ちの旅行鞄の中にはスコアの束、指揮棒、3枚のシャツに下着、歯ブラシ、そして髭剃りだけを入れた。自伝の中では次のように告白している――「束の間、父のヴァイオリンをせめて一挺だけでも荷物に加えたい、という抗いがたい欲求に憑りつかれたものです」。

作曲家の父トマシュ・パヌフニクは弦楽器製作に情熱を傾けた人物で、彼の製作したヴァイオリンは市場でも最高のモデルの一つとされていた。その縁あって彼は才能ある女流ヴァイオリニスト、マティルダ・ゾーンズと知り合い、1908年に結婚。アンジェイ・パヌフニクはマティルダとトマシュの二男として1914年9月24日ワルシャワで誕生する。第一次世界大戦勃発直後のことであった。

音楽が絶えず流れる家庭環境の中、彼も幼いころから音楽に大いに興味を持っていた。ところが音楽院の一年目にして音楽の道にピリオドが打たれかねないというできごとがあった。緊張のあまり我を失って大切な試験に落ちた彼は学生名簿から抹消されてしまったのである。当時の評価委員の中にはカロル・シマノフスキの姿があった。パヌフニクが音楽院に復学したのは4年後のことで、1936年には音楽理論と作曲のクラスを特別賞付きで修了する。

それより前のこと、娯楽音楽の分野で一躍名を成すという誘惑に直面したことがあった。彼がピアノ用に書いた若書きの作品の一つが当時の人気コメディアン、アドルフ・ディムシャによって歌われ、30年代初頭の大ヒット歌謡曲となったのである。しかしながら彼は一連の娯楽作品をあまり重要なものとはみなさなかった。自らの本格的デビュー作は1934年作曲の《ピアノ三重奏》であるとしていたのだ。この作品は批評家の高い評価を得、彼が若い世代の中でも傑出した才能を持つクリエイターであることを世間に知らしめることになった。第二次世界大戦の勃発さえなければ、彼は瞬く間に成功を収めたに違いない。

占領下のワルシャワでは方々のカフェで演奏することで生計を立てた。学友のヴィトルト・ルトスワフスキとともに有名な2台のピアノのための連弾を世に送り出している。彼はまたいくつかの軍歌の作曲家でもあった。蜂起の時には病床の母親を世話しながらワルシャワ都下のブルヴィヌフで過ごした。そしてできる限り長い間、兄の死の知らせを母に隠し続けたのだった。兄ミロスワフは住居に爆撃を受け、瓦礫の下敷きとなり亡くなったのである。兄の死後、アンジェイは1942年作曲の《悲劇的序曲》を彼に献呈した。これは戦後自ら復元させた作品で、同種のものはほかにも数曲ある。というのも彼の作品は蜂起の最中、総譜がことごとく失われてしまったからである。

それにもかかわらず、人生の中で彼に最も深い傷跡を残したのはこの戦争ではなく、スターリン主義時代の経験だった。「ドイツ人は国を占領したが、思想までは占領しなかった」――後年こう述懐している。

1948年末、党の統一を記念する歌を作曲せよという拒みようのない依頼を受ける。その後もますます苦悩を強めながらも政府からの期待に応えていくことになった。しかし自らの芸術を社会主義リアリズムのプロパガンダに迎合させることは彼の意思に反しており、また実際にそうすることもできなかった。しまいに彼は両極端な状況に置かれることになった――一方で彼の作品はコンクールの受賞を重ね、また一方ではフォルマリズムの烙印を押されたのである。こういった状況は精神的にも創造性の面でも深刻な危機をもたらした。1954年に亡命するまでの期間、彼は主にポーランド音楽の復元に注力し、作品としてはあまり重要でないものを数曲作るにとどまった。

外国での生活は想像よりも困難なものだった。ポーランドでは裏切り者とされ、公然の場からは存在の痕跡がかき消された。1977年に至るまでパヌフニクの作品は演奏を禁じられただけでなく、彼に関するいかなる言及も許されなかったのだ。追い打ちをかけるように、それまで彼の肩を持っていた英国の音楽業界もロンドンでの彼の存在を無視するに至った。

ほとんどゼロから出発し、実りの乏しい数年間を過ごした後、運命は再び彼に微笑んだ。そこで重要な役割を演じたのはカミラ・ジェッセル――当初のアシスタントで、後に作曲家の妻となった人物だった。彼らは1963年に結婚する。不首尾に終わった最初の結婚と違い、この結婚生活は彼の人生の中でも最も幸せな期間となった。結婚25周年に際し、彼は妻に《ハーモニー》と題した作品を献呈している。

人生が満たされたのに次いで、作曲家としての実りの季節も訪れた。世界中から彼のもとに作曲の依頼や称賛が寄せられるようになったのである。ロンドン交響楽団は彼の生誕70周年を特別コンサートで称え、終演後には彼のために素晴らしいパーティが用意された。「自分がようやく追放者でなくなったのだということを実感しました」――感動した彼はこのように述べた。

ただ祖国との和解だけがまだなされていなかった。パヌフニクは、ポーランドで共産政権が倒れたあかつきには祖国の地を踏むとの誓いどおり、1990年開催の「ワルシャワの秋」音楽祭実行委員会の招待でワルシャワに赴く。彼を迎えたワルシャワ・フィルハーモニーでは数分間にわたってオベーションが続いた。

当時彼は既に深刻な病気を患っていたが、それを知るのはごく親しい者たちだけだった。彼が最後に作曲した作品は、ムスティスラフ・ロストロポーヴィチのために書いた《チェロ協奏曲》であった。仕上がった手稿譜に日付を書き込む際、それが19.9.91という左右対称の並びになることに気付いた彼は、感嘆符を付してそれを強調した。数字や幾何学的図形はいつも彼が魅力を感じる対象だった。

1991年10月27日、77歳の誕生日からほどなくして彼は世を去った。数か月前に英国への貢献に対してエリザベス二世女王から爵位を授与されたばかりのことだった。サー・アンジェイ・パヌフニクはこの栄誉に浴した初めてのポーランド人芸術家となった。

 

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http://www.naxos.com/person/Andrzej_Panufnik/17742.htm