日本ルトスワフスキ協会

日本ルトスワフスキ協会

 

 

設立 東京2008年7月8日

名誉会長 在日ポーランド共和国大使

名誉会長 阿部 緋沙子  東京生まれ。師・宅孝二作品と現代ポーランド作品で、デビュー以来、リサイタルで約50曲の現代ポーランド作品を日本初演。ポーランド政府の招待により、W.ルトスワフスキ、K.セロツキに現代音楽の演奏及び 解釈を、B.ヴォイトヴィチ、J.エキェルの両教授にショパン、民俗音楽を中心に演奏及び解釈をそれぞれ学ぶ。1969年ポーランド作曲家連盟主催の「ポーランド現代音楽の夕べ」、ショパン協会ほか共催の「日本とポーランド現代音楽リサイタル」でポーランドデビュー。 1993年にはワルシャワ国立フィルハルモニア初の企画主催「日本の夕べ」リサイタルで日本とポーランドの20世紀作品を演奏。1972年「現代ポーランド音楽を楽しむ会」設立、現在までに64回の例会をもつ。1979年ポーランド政府により日本人演奏家初「文化功労章」を贈られる。ショパン・マズルカの源泉でもあるルネサンス期からの作品「ポーランド舞曲集」、「美しいポーランド舞曲」ほか編集校訂、1998年「ポーランド音楽の歴史」共訳、いずれも音楽之友社刊。2002年には、日本におけるポーランド現代音楽の紹介に対する功績が認められ、ポーランド共和国外務大臣賞を受賞。

会長 今村 能    1954年大阪生まれ。国立音楽大学卒業。桐朋学園大学指揮科研究生修了。小澤征爾、秋山和慶、尾高忠明、高階正光各氏に師事。1977年にベルリン・フィルを指揮し、カラヤン・コンクール・ジャパンに入賞。カラヤン氏の招きでザルツブルク・ベルリンに留学。1981年にはカンテッリ国際指揮者コンクール・ファイナリスト。ミラノ・スカラ座管弦楽団を指揮。1983年ポーランド・フィテルベルク国際指揮者コンクールで優勝。ルトスワフスキ「管弦楽のための協奏曲」、シマノフスキ「ヴァイオリン協奏曲第1番」を指揮し、ポーランド国立歌劇場総裁賞、ポーランド音楽家協会賞を受賞。 1984年以来ワルシャワ・フィル、ウッチ・フィル、ポズナン・フィル、クラクフ・フィル、ポーランド国立放送響等を指揮。シンフォニア・ヴァルソヴィア創立時から指揮台に立ち、ローマ法王追悼・ドイツ演奏旅行を指揮。2007年には第12回ルトスワフスキ・フォーラム開幕演奏会でルトスワフスキ「交響曲第4番」を指揮。日本でもルトスワフスキ、カルウォヴィチ、ノスコフスキ、モニューシュコ等、多くのポーランド作品を紹介。これまでにヘルシンキ・フィル、リトアニア国立響、イタリア放送響、北ドイツ・フィル、デンマーク放送響、ウィーン・フィル木管アンサンブル、NHK交響楽団等を指揮。オーケストラ・アンサンブル金沢専属指揮者。ウッチ大劇場オランダ公演指揮者。2002年よりポーランド国立歌劇場指揮者。2008年には在ポーランド日本国大使館共催の「日本の夕べ」を指揮。2009年にはヴロツワフ歌劇場のイタリア・ベルギー・ポーランド共同制作「サムソンとデリラ」の音楽監督。イタリア・スポレート歌劇場、スタラ・ザゴラ歌劇場、新国立劇場等で指揮。国立音楽大学指揮法講師。多摩フィルハルモニア協会音楽監督。http://www7b.biglobe.ne.jp/~chikara/

副会長 井上 道義  1946年東京生まれ。桐朋学園大学にて齋藤秀雄氏に師事。1976年日本フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会で日本デビュー。1977年から1982年までニュージーランド国立交響楽団の首席客演指揮者、1983年から1988年まで新日本フィルハーモニー交響楽団の音楽監督を務め、また、1990年から1998年まで京都市交響楽団の音楽監督、常任指揮者を務める。ロンドンのロイヤル・フィルを定期的に指揮、そのほか、これまでにベルリン(RIAS)、ハンブルク(NDR)、シュトゥットガルト(SDR)、ドレスデン・フィル、スカラ・フィル、レニングラード交響楽団、フランス国立管弦楽団、リール国立交響楽団、ブタペスト祝祭管弦楽団、ハンガリー国立管弦楽団、ルーマニア国立放送交響楽団、KBS交響楽団、台北国家交響楽団など欧米アジア各国で指揮している。2000年9月より3シーズンにわたって新日本フィルハーモニー交響楽団首席客演指揮者を務め、2007年1月よりオーケストラ・アンサンブル金沢音楽監督ならびに石川県立音楽堂アーティスティック・アドバイザーに就任。1990年大阪ザ・シンフォニーホールの「国際音楽賞、クリスタル賞」1991年「第9回中島健蔵音楽賞」、1998年フランス政府より芸術文芸勲章(シュヴァリエ賞)を受賞。http://www.michiyoshi-inoue.com/ 

副会長  関口 時正   東京生まれ。
1974/3 東京大学文学部仏語仏文学科卒業
1974/4  東京大学大学院人文科学研究科比較文学比較文化専修課 程入学(比較文化専攻)
1974/10 ポーランド政府給費奨学生としてクラクフ市ヤギェロン大学に留学(~1976/9)
1979/3 上記大学院修士課程修了
1979/4  東京工業大学工学部人文社会群助手
1981/12  米国イェール大学 visiting fellow(日本学科・スラヴ学科)(~1982/3)
1982/4  熊本大学文学部比較文学コース専任講師
1984/4  東京工業大学工学部人文社会群助教授
1986/10  ワルシャワ大学日本学科客員教授(~1987/6)
1992/4  東京外国語大学ロシア東欧語学科ポーランド語専攻助教授
1995/9  Stowarzyszenie "Bristol" Polskich i Zagranicznych Nauczycieli Kultury Polskiej i Języka Polskiego jako Obcego (国際ポーランド語ポーランド文化教育者連盟)創設作業に参加)
1998/11 「Zasłużony dla kultury polskiej ポーランド文化功労者」勲章(ポーランド共和国政府)
2000/9  Stowarzyszenie "Bristol" 副会長
2001/4  東京外国語大学総合文化講座(ポーランド文化論)教授
2006       日本におけるポーランド文化の紹介に対する功績が認められ、ポーランド共和国外務大臣賞を受賞
専門領域・研究主題
ポーランド文化史全般
ポーランド人の自画像・他画像
「ヨーロッパの防壁」神話
カロル・ヴォイティワ(ローマ教皇ヨハネ・パウロ二世)研究

会員 久山 宏一

顧問    三善 晃 1933年東京生まれ。
1952年R.・ガロワモンブランに作曲を師事。
1953年東京大学仏文科在学中、毎日音楽コンクール作曲部門第一位。
1955年フランス政府給費留学生として渡仏、パリ国立音楽院にてH.シャロン和声クラスに入る。
1960年東京大学仏文科卒業。
1963年東京芸術大学講師。
1966年桐朋学園大学助教授。
1973年桐朋学園大学教授。
1974~95年桐朋学園大学学長。
1988年日本現代音楽協会委員長。
1996~04年東京文化会館館長。
日本芸術院会員。
代表作品に「ヴァイオリン協奏曲」「響紋」など。
著書に「遠方より無へ」「ヤマガラ日記」がある。
受賞:
尾高賞(6回)
毎日音楽賞(3回)
NHK作曲賞(2回)
芸術祭賞(6回)
イタリア賞
芸術祭奨励賞(多数)
IMC賞
フランス政府学術文化賞。パルム・アカデミーク(1984年)
芸術選奨文部大臣賞(1985年)
日本芸術院賞(1989年)
東京都文化賞(1990年)
モービル賞(1990年)
有馬賞(1995年)
サントリー音楽賞(1999年)

会員 平岩 理恵

まえがき

世界の人々から最高の尊敬と最高の愛を捧げられるルトスワフスキの音楽を、いまだ未知の国である日本の人々の魂に感応することができれば、私共にとりましてこの上も無い喜びと光栄に存じます。

設立目的:
1.
– ルトスワフスキ作品の紹介
– ルトスワフスキ研究


2.
ルトスワフスキをつぐ作曲家たちの研究:
–     バツェヴィチ・グラジナ     (1909-69)
–     セロツキ・カジミェシュ     (1922-81)
–     ベールト・タデウシュ     (1928-81)
–     ペンデレツキ・クシシュトフ (1933~ )
 

3.
–     日本とポーランドの文化交流

 

ルトスワフスキ・ヴィトルト Lutosławski Witold (1913.1.25 ワルシャワ~94.2.7 ワルシャワ) 作曲家、指揮者。ピアノを1924年から27年までJ.シミドヴィチに、ついでワルシャワ音楽院でJ.レフェルトに学び1936年に卒業。ヴァイオリンをL.クミトヴァに1927年から32年まで学んだ。作曲法を15歳から個人教授でW.マリシェフスキに学び始め、つぎに音楽院で同じくW.マリシェフスキに学び1937年に卒業。その間1931年から33年までワルシャワ大学で数学を学んだ。1959年から65年まで国際現代音楽協会(ISCM)の理事、委員および副委員長。

 数多くのアカデミーの会員資格を贈られている。その中には、ロンドン-ロイヤル音楽アカデミー、パリ-アカデミー・ド・ボーザール、アメリカ芸術文学アカデミー、スウェーデン王室音楽アカデミーが含まれる。つぎの各大学より名誉博士号が贈られている。クリーヴランド音楽院(1971)、ワルシャワ大学(1973)、シカゴのノース・ウェスタン大学(1973)、グラスゴー大学(1977)、トルン大学(1981)、クラクフ大学(1984)、ケンブリッジ大学(1987)、ワルシャワ医科大学(1988)。作曲法の客員講義の主なものは、タングルウッド(1962)、ダーリントン(英国)の音楽夏季学校(1963.6.4)、ストックホルムの音楽アカデミー(1964)、エッセンのフォルクヴァンク大学、コペンハーゲン音楽院、ダートマス・カレッジ、テキサス州立大学。

 多くの賞を受けている。まず国内の賞をあげると-ワルシャワ市賞(1948)、ポーランド音楽祭一等賞(1951)、第二等国家賞(1952)、閣僚評議会議長賞(1954:子供のための作品に対して)、第一等国家賞(1955、1964、1978)、ポーランド作曲家連盟賞(1959)、および全作品に対して文化芸術大臣賞(1962)など。外国からの受賞も多い。1959年、64年、78年のユネスコ国際作曲家トリビューン賞、1971年のラヴェル賞、1973年のシベリウス賞、1983年のシーメンス賞、1984年「連帯」賞、1985年のグラーヴェマイアー賞、1985年のユネスコ賞、1985年のソフィー・スペイン王妃賞、1985年の王立フィルハーモニー協会金メダル(ロンドン)、1964年、1986年のクーセヴィツキー国際レコード賞、1993年のPolar Music Prize、1993年の京都賞など。

http://emuseum.kyotoprize.org/WitoldLutoslawski

連絡先:c/o ポーランド広報文化センター  (03) 5794-7020

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ルトスワフスキ氏から阿部緋沙子さんへ送られたお手紙の一節です。
1971年6月14日 Szanowna i droga Pani  (尊敬と愛をこめて)
音楽は、人間の魂の最も繊細な楽器だと思います。この楽器の秘密の力があればこそ、この上なく遠くへだたった大陸に住む人々の間でさえお互いの魂のふれあいが得られるのです。今日の困難であつれきに満ちた世界ではとくに必要な貴重な魂のふれあいなのです。
  (後略)
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 「ポーランド音楽小史」 

本文は、月刊誌『音楽の友』12月号(「音楽の友社」発行)の「ショパンとポーランドの音楽」特集に掲載された「ポーランド音楽小史-13世紀の賛美歌からルトスワフスキ、ペンデレツキまで-」を著者である阿部緋沙子氏のご厚意により転載させて頂いたものです。

中世-黄金期から分割時代を経た第一次大戦後の独立、第二次世界大戦、戦後のスターリニズムから"雪どけ"まで、列強に翻弄された歴史と各時代のポーランド音楽について解説されています。

13世紀の賛美歌からルトスワフスキ、ペンデレツキまで

文=阿部緋沙子(ピアニスト)

国も文化も栄えた

中世・黄金のポーランド

 9世紀半ばに初代のピアスト王が即位して「ポラーニ王国(ポーランド)」が誕生しました。国名は後に「ポルスカ」となり、ポーランドの正式の国名は現在も「ポルスカ」です。13世紀初頭に、初めてポーランド語で讃美歌<ボグロジツァ–神の御母>が作られました。聖母マリアを讃えるこの詩歌を人々は、ことあるごとに国歌のように歌い、祈りを捧げて聖母マリアの特別のお加護を信じてきました。1410年のポーランド史上重要な「グルンバルドの戦い」でもこの詩歌を歌いながら戦い、信じられないほどの大勝利をおさめました。グルンバルドの戦いの勝利をきっかけに国が発展し続け、ヤギェウォ王朝(1380~1572)の時代には、リトアニア大公国、ハンガリー王国、チェヒ王国の国王をポーランド王が兼ね、ボスニア、モルダビア、トランシルバニアを統治し、3つの海を領有する、バルカン以北のヨーロッパにおける空前絶後の大王国となりました。

 ポーランド史上、この時期を〈黄金期〉と呼びます。音楽の世界も宮廷音楽家を中心に飛躍的発展を遂げ、立派な作品が数多く生まれました。この時代の代表的な音楽家の名前を、少し挙げてみましょう。

 ラドムスキ・ミコワイ(15世紀前半)

 ヤジェンブスキ・アダム(1590頃~1649初め)

 クラクフのミコワイ(16世紀前半)

 ドゥーゴライ・ヴォイチェフ(1557または58~1619以後)

 フシャヌフのミコワイ(1485~1555以後)

 ポラク・ヤクブ(1540頃~1605)etc.

 その頃、クラクフのヤギェウォ大学では地動説のコペルニク(通称、コペルニクス)が学んでいました。

 17世紀に入ると王国の黄昏が始まりました。絶え間ない王位継承争い、怠惰な議会など、支配層の腐敗によって国力は衰える一方でした。18世紀半ばになると、ロシア、プロイセン、オーストリア3国の陰謀によりポーランドは、植民地化されようとしていました。

 覚醒した愛国者たちの必死の抵抗が始まりました。その中の1人、コシチューシュコ将軍は、勇敢な名将で立派な思想の持ち主でした。1794年3月にクラクフの中心広場で群衆の大歓呼の中でコシチューシュコは蜂起の宣言をしたのです。この「コシチューシュコ蜂起」には後にショパンのお父様となるフランス人、ミコワイ・ショパンが自ら志願して参加し、キリニスキ分隊の一兵卒として、ロシア兵と戦っていました。決起した愛国者の中にミハウ・クレオファス・オギンスキがおりました。大貴族の彼は、外交官、大蔵郷として祖国の再興に尽力した愛国者でした。彼が国の滅亡後、パリに亡命する時に作ったピアノ曲「ポロネーズ《さらば祖国よ》」は今日まで200年の間、ポーランドの人たちにとってなくてはならない音楽なのです。

列強の支配下で育まれた愛国心

 ポーランドでは18世紀~19世紀にかけて「ポロネーズ」が最も愛好されました。それはいろいろな意味が含まれていますが、ポーランド語を使えない時代に「ポルスカ」をフランス語綴りに置き換えてタイトルにすることはポーランドの人々にとって、大きな喜び、すなわち〈愛国心の発露〉と言われています。愛国者たちの必死の努力も空しく、1795年にポーランドは滅亡してしまいました。その時、愛国者ドンブロフスキ将軍が亡命先のミラノから軍団の結成を呼び掛けました。集まって来た義勇兵のあまりの多さに感動した将軍と彼の副官であり、優れた詩人であるヴィヴィツキが詩を作り「ポーランドいまだ死せず我ら生ある限り……」で始まる「ドンブロフスキのマズレク」が生まれ、ポーランド語も厳禁の暗黒時代も大切に歌い継がれて1927年に正式に国歌となりました。それからのポーランドはロシア、プロイセン、オーストリアの3国に分割されて地図から国名が消えたのです。

 1810年にはフリィデリィク・ショパンが誕生しました。1815年、ショパンが5歳の時ウィーン会議によりロシア皇帝をポーランド王としてワルシャワにポーランド王国が誕生しました。この時のロシア皇帝、アレクサンドル1世の良き理解により、ポーランドの人たちは限られた中ではありましたが、日々の暮らしを楽しむことができました。

 1825年。ショパン15歳の時に初代ポーランド王=ロシア皇帝アレクサンドル1世に突然の死が訪れました。

 次のポーランド王ニコライ1世は初代王と異なり、ワルシャワ市民とことごとく鋭く対立して、日々険悪な関係になっていきました。その上、王弟である司令官の暴虐ぶりは日ごとに増すばかりでした。たまりかねたワルシャワ市民はついに起ち上がり、ワルシャワ歩兵士官学校に秘密組織が生まれました。蜂起は1830年11月29日と決まり″11月の蜂起″と名付けられました。20歳のショパンは11月蜂起の直前、1830年11月2日にウィーンに向けて出発しました。ワルシャワのはずれヴィラ地区の旅館で師エルスネル先生が作曲したカンタータ《ポーランドの地に生まれし者》をご両親、姉妹、エルスネル先生などが歌って見送りました。1831年に″11月蜂起″が完全に失敗してワルシャワは降伏。この悲報をショパンは9月8日にシュトゥットガルトで知りました。

 1835年、25歳のショパンは8月から9月にかけてボヘミア領のカールスバードでご両親と対面が叶いました。再会の地をポーランド領ではなく、ボヘミア領を選んだのは、ロシア官憲の力が及ばぬ場所に決めた可能性が充分考えられます。ショパンはワルシャワ時代から過激な運動家と付き合い、パリに移ってからも11月蜂起の参加者などの亡命者グループのためのチャリティ・コンサートに積極的に出演するなど、精神的にも激しい動きをしていたのです。ショパンはご両親との再会を「天国にいるような心地」と表現しました。この後もショパンのご両親は努力して再会の計画を立てましたが、成功せず、これが最後の対面となりました。ご両親と喜びの再会の翌年、26歳のショパンは、ジョルジュ・サンドを知ります。この後1846年の蜂起も不成功に終わりました。

 これらの蜂起のたびに「軍歌」の文字とは程遠い美しくロマンティックな歌が生まれ、今日も大切に歌われているのです。

 この後、1863年の″1月蜂起″も失敗に終わり、その後、ポーランドは3国の厳しい支配が強化され、特にワルシャワ地区を占領していたロシア帝国の弾圧は筆舌に尽くし難いものでした。例えば、

 ポーランド人の民族性の剥奪

 ポーランド語の使用厳禁

 ワルシャワ、ヴィルノ、両大学の廃止

 10万の軍隊常時進駐etc.

 この後のポーランドは自由を失いながらも、国家再建の努力を黙々と積み重ねていきました。歴史上″有機的労働の時代〟と言われています。この苦難の時代の中で人々に大きな喜びを与えたのは、作曲家モニュシュコ・スタニスワフ(1819~72)の活躍でした。モニュシュコはポーランド・ロマン主義歌曲と民話に基づいたポーランド国民オペラを創出したのです。この立派な珠玉のように美しい音楽は、ポーランドの大切な宝物なのです。

多くの優れた才能を輩出した

20世紀ポーランド音楽界

 20世紀に入ると、1905年の日露戦争における日本海海戦の結果も刺激となって革命運動の機運が盛り上って来ました。そして、困難な日々の暮らしの中で1901年、ワルシャワに「フィルハルモニア(現在はフィルハルモニア・ナロドーヴァ)」を創立。ポーランド初の本格的オーケストラとコンサートホールの誕生は、長い辛い日々を生き抜いて来たポーランドの人々にとって光り輝くような生きる支えとなったのです。その上音楽家たち、特に作曲家にとって大きな喜びと励ましとなりました。1901年11月5日のオープニング・コンサートはポーランド作品だけでプログラムが創られ、I・J・パデレフスキがピアノを受け持ちました。

 パデレフスキは、大ピアニストとして諸外国での演奏活動と共に、祖国の独立運動に心血を注いでいました。その頃創られた彼の作品《シンフォニア・ポロニア》がボストンで初演され、「ポーランドいまだ死せず……」で始まる「ドンブロフスキのマズレク」を変奏曲に仕立てた終楽章をもち、独立への願いが聴く者の心を貫いていくのです。

 1917年にはパデレフスキの説得が効を奏し、アメリカのウィルソン大統領が年頭教書でポーランドの独立問題について言及し、翌年も再び取り上げました。ロシアでも「ツアー体制」が崩壊し、独立への希望が強まってきたのです。ここでポーランドの2大政党の意見の合致が必要となり、どの党派にも属さない1人の人物、パデレフスキがまとめ役をかって出たのです。ポーランド民族の熱狂の中、パデレフスキ内閣が誕生し、1919年1月独立ポーランド最初の国会が開かれたのでした。長い間3つの国に分けられていたポーランドを1つの国にまとめる努力がこの時から始まりました。

 国境線の問題でソ連との戦争もありました。この時も奇跡としか言いようのない勝利をおさめました。その日、8月15日は奇しくも聖母マリアの最も重要な祝日〈被昇天の日〉でありました。ポーランド史上″ヴィスワの奇跡″と呼ばれます。

 カロル・シマノフスキは、彼の最重要作品の一つであるオラトリオ《スタバト・マーテル》を1926年に完成しています。1926年以後農業国として発足した新生ポーランドは、近代国家として大きく成長していきました。しかし、1939年9月1日、ナチス=ドイツの宣戦布告なしの侵略からポーランドの苦難が再び始まったのです。ナチス占領下のワルシャワでは、音楽院の閉鎖、ポーランド作品の演奏禁止、集会、コンサートの禁止など、厳しい弾圧の下におかれたのです。そのワルシャワで毎週1回ポーランド作品の初演コンサートが行われていました。ナチスに見つかれば主催者は″即刻銃殺″の危険をも顧みず、B・ヴォイトヴィチ教授はこのコンサートを主催し続けたのでした。ポーランドの人たちにとっての〝音楽〟とは、食べる物以上に生きていくための日々の糧なのです。

 それからのポーランドは、ヤルタ会談などで仕組まれた社会主義体制に巻き込まれていきました。芸術の世界も言わゆる″スターリニズム–社会主義レアリズム″のあおりを受けたのです。この〝社会主義レアリズム″の嵐が吹き荒れていた時、ポーランドでは巨匠ルトスワフスキの指導のもと、未来ある作曲家が集まって極秘裏にヨーロッパの最新の作曲技法を学んでいたのです。

 1956年、待ちに待ったその時、いわゆる〝雪どけ″の時代がやって来たのです。ワルシャワではK・セロツキとT・ベールトの提唱により「国際現代音楽祭–ワルシャワの秋」第1回が開催されました。

そこで、世界の音楽界がただただ驚くばかりの才能が一斉に花開き世界の空高く羽ばたいていきました。セロツキが、ベールトが、ペンデレツキが、バツェヴィチが、グレツキが……。

 その先頭は満面に笑みを湛えた、世界中から最高の尊敬を捧げられている、ヴィトルト・ルトスワフスキその人なのです。

 このような歴史をもつポーランドの人々に、聖母マリアは最高の贈物を用意してありました。

 世界中の人から不滅の愛と尊敬を捧げられる芸術家たちを。

 その名は、

 ショパン。

 シマノフスキ。

 ルトスワフスキ。