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ユダヤ人を救ったポーランド人を知る ② ヴィトルド・ピレツキ

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ヴィトルド・ピレツキ(Witold Pilecki)は1901513日、当時ロシア帝国にあったオウォニエツという町で生まれる。5人兄弟の次男(長男は5歳で逝去)。1910年にヴィリニュスへ移住、商業学校を卒業。1918年~21年にはポーランド軍に入隊、その後ポズナン大学で農業を学び、美術学校で聴講もしていた。

19399月、ポーランド軍に入り、ポーランド侵攻で戦う。

1940年にアウシュヴィッツ ナチス・ドイツ強制絶滅収容所がつくられた。初期の段階でここに収容されていたのはポーランド軍、ソ連軍の捕虜であった。当時地下組織で活動をしていたピレツキは収容所内の状況を確認・報告するためアウシュビッツに進んで入所、潜入する。この時点での目的は、収容所内に地下組織を作ること。内部情報をワルシャワの司令部に届けること。収容所内の不足物資を外部から調達する一端を担うこと。そして最終的にはロンドンの亡命政府を通じイギリス政府に働きかけ、収容所の解放を求めることであった。

ピレツキが作成した報告書(「ヴィトルド報告」)には収容所内の非人間的な様子が綴られていた。この報告の存在が明らかになったのは1990年以降のことであった。

収容所の脱走に成功したのは1943426日から27日の間。948日間の潜入が終わった後、ピレツキはワルシャワ蜂起に参加。蜂起は鎮圧されるが彼は生き残り逮捕される。その後収容所は解放されるが、ポーランドではソ連が台頭し、反ソ連の運動の中心であった国内軍の一員であったピレツキはまたしても逮捕、度重なる拷問の末、死刑に処され1948525日死刑執行人ピオトル・シミェタンスキにより後頭部を銃で打たれ生涯を閉じた。

ピレツキは「呪われた兵士たち」の一人として挙げられる。彼については、2015年に小林公二氏により書籍「アウシュヴィッツを志願した男 ポーランド軍大尉、ヴィトルド・ピレツキは三度死ぬ」が発表されている。
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201611月、駐日ポーランド共和国大使館ならびにポーランド広報文化センターで大尉の115回目の誕生日を記念したシンポジウム「ヴィトルド・ピレツキ大尉 ナチス・ドイツ占領下とスターリン時代ポーランドで祖国独立のために闘った英雄」を開催。

関連:http://instytut-polski.org/event-archives/archives-other/7257/

・ユダヤ人を救ったポーランド人を知る シリーズ① ヤン・カルスキ

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