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イグナツィ・ヤン・パデレフスキ没後75周年

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Paderewski HP

イグナツィ・ヤン・パデレフスキ 1860年11月18日クリウフカ(後にロシア領)生まれ。ピアニスト、作曲家、社会運動家、首相兼外相としてヴェルサイユ条約に調印した政治家。

1872年、ワルシャワ音楽院入学。1881年からベルリン、ウィーンで音楽の勉強を続け、その間には著名なテオドル・レシェティツキ教授にも師事する。彼の最初の音楽作品が生まれたのはこの頃である。1888年、パリのエラール・ホールでシリーズコンサートを開催。ピアニストとして華やかなデビューを飾る。

1891年のアメリカ合衆国への演奏ツアーは大きな成功を収め、これを機に、ヨーロッパのほぼ全ての国、アフリカ (1912年)、オーストラリア (1904年) で演奏活動を展開する。その一方で、音楽作品の創作活動も続け、ピアノ協奏曲 イ短調作品17 (1888年)、オペラ「マンル」(1900年)、そして“祖国への愛国的賛辞”として交響曲 ロ短調『ポーランド』作品24などを作曲する。

交響曲の完成と初演は1909年~1910年、「グルンヴァルトの戦い」500周年と、パデレフスキ自身が設立したクラクフのグルンヴァルト記念碑除幕式と時を同じくしている。この式典において、ピアニストは150,000人の聴衆を前に烈々たる演説をし、ピアニストとして最も輝かしく活躍していた1910年頃、パデレフスキは作曲活動に終止符を打つ。

第一次世界大戦勃発後、社会的・政治的活動に専念。1915年に作家ヘンリク・シェンキェヴィチがスイスで創立したポーランド戦争被害者支援協会で働く。1915年、スイスを出てフランス、イギリスを経て渡米。現地で様々なポーランド独立運動を支える。演奏会に合わせた300以上の集会を組織し、ポーランド人の自由獲得への戦いに対する支援を訴えた。フランスのポーランド軍に、30,000人にも及ぶアメリカ人がボランティアで加担したのも、彼の活動の賜物である。

自身の活動を通してパデレフスキは遂にトーマス・ウッドロウ・ウィルソン大統領の下へ辿り着き、大統領にポーランド問題に対する支援を説得するに至る。1917年、パデレフスキがポーランド独立回復の必要性に関する声明文を提出したことが決定打となり、1918年1月8日、大統領はアメリカ連邦議会にてポーランドの独立回復をアピールした。パデレフスキはまた、イギリス、フランス、イタリアが、「ヨーロッパの正当かつ継続的な平和は、ポーランドの独立と自由の下に築かれる」と承認した1918年6月3日のヴェルサイユ声明においても、重要な役割を果たした。

1919年1月16日、パデレフスキは、国家元首ユゼフ・ピウスツキよりポーランド第二共和国の首相・外務大臣に任命される。1919年6月28日、パデレフスキはポーランドの名の下に、ヴェルサイユ条約を締結。1919年12月9日、首相の座を去り、1920年1月、スイスへ転居する。外国では代わらず大使のポーランド国家評議会や国際連盟の代理人としてポーランドの代表役を務める。

第二次世界大戦勃発後は、老齢であったにも関わらず、1939年12月、フランスで国政に復帰。同時期、彼のまとめていたスイス支部は政治的亡命者達の活動の拠点となる。1940年8月、パデレフスキは再びポーランドを救う道を探すべく渡米。

スイスを発つ直前にラジオを通して行われた演説で、パデレフスキは次のように訴えた: 人生を祖国に捧げました。心の底から、そして、全力をかけて奉仕しました。皆さん、今ポーランドがどれほど不幸せで苦しんでいるかご存知でしょう。祖国が私を呼びました、私に仕えさせるため。このような現状においては、年齢や健康、長く過酷な旅のリスクでさえ厭いません。

イグナツィ・ヤン・パデレフスキは1941年6月29日、ニューヨーク市に客死した。亡骸はアーリントン国立墓地に葬られたが、1992年にその遺灰がワルシャワに持ち帰られ、ワルシャワ聖ヨハネ大聖堂の地下霊廟に埋葬された。白鷲十字勲章、ポーランド復興十字勲章、ポーランド軍事功労十字勲章など授与。