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ヤン・カルスキ年 2014

過去のイベント, その他

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日本における「ヤン・カルスキ年」関連行事の一つとして、去る9月27日に、東京の青山学院大学で、ヤン・カルスキ・シンポジウムが開かれた。主催はポーランド広報文化センター、後援は駐日ポーランド共和国大使館である。シンポジウムと同時に、ポーランド歴史博物館が製作したパネル「世界は知った  ヤン・カルスキが果たした人道的な任務」の日本語版が展示された。

シンポジウムと展示は、中高年や若い世代の日本人、特に学生から大きな関心をもって迎えられた。今回のイベントには、大学教員、ジャーナリスト、歴史家、その他ポーランドの歴史と文化に関心を持つ人々が参加した。

シンポジウムに登壇したのは、クリストファー・W・A・シュピルマン(九州産業大学教授)、池内紀氏(作家)、国分俊宏氏(青山学院大学教授)、割田聖史氏(青山学院大学准教授)である。

ヤン・カルスキの生涯と業績は、日本ではすでに、ヤニック・エネル『ユダヤ人大虐殺の証人 ヤン・カルスキ』(河出書房新社 2011年)とヤン・カルスキ『私はホロコーストを見た:黙殺された世紀の証言』(白水社 2012年)が邦訳刊行されていたことにより、ある程度まで知られていたといえる。

今回のシンポジウムと展示など、広報文化センターと駐日ポーランド共和国大使館の事業は、ヤン・カルスキの人物とその偉大さを、一般により広く知らせる契機となった。

シンポジウムに先立ち、青山学院大学では、8月から9月初めにかけて、第二次世界大戦とホロコーストに関する映画の連続上映会が催された。ロマン・ポランスキー監督『戦場のピアニスト』、クロード・ミラー監督『ある秘密』、スティーヴン・スピルバーグ監督『シンドラーのリスト』、アラン・レネ監督『夜と霧』、ルイ・マル監督『さよなら子供たち』である。

パネル「ヤン・カルスキ 自由の男」の展示会は、この後、10月10~13日には、東京の画廊YUKI-SIS(http://yuki-sis.com/)で、10月27日~11月9日には、北海道ポーランド文化協会(http://hokkaido-poland.com/ )との共催により、札幌エルプラザで開かれる。

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シンポジウム登壇者――左から割田聖史准教授、国分俊宏教授、池内紀名誉教授、福田大輔准教授(パネル・ディスカッション司会)、クリストファー・W・A・シュピルマン教授

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ツィリル・コザチェフスキ駐日ポーランド共和国大使とクリストファー・W・A・シュピルマン教授

関連展示・カルスキ展

「世界は知った」ヤン・カルスキが果たした人道的な任務

Gallery YUKI-SIS 2014年10月10日 – 10月13日まで

〒103-0023 東京都中央区日本橋本町3-2-12 日本橋小楼202  Tel.:03-5542-1669  info@yuki-sis.com  http://yuki-sis.com/

札幌エルプラザ 2階展示スペース 2014年10月27日 – 11月9日まで

〒 060-0808  北海道札幌市北区北8条西3丁目  Tel.: 090-6447-1700 (北海道ポーランド文化協会 ・ 佐光) http://hokkaido-poland.com/
 

Jan Karski VEDA

マチェイ・サドフスキ著「ヤン・カルスキ」VEDA 出版社 2014年

2013年12月6日、ポーランド共和国下院は、2014年を「ヤン・カルスキ年」とする決議を行いました。決議案には、次のように記されています―「2014年は、ヤン・ロムアルト・コジェレフスキとして、ウッチ市に生まれたヤン・カルスキの誕生から100年目にあたります。本記念年を機会に、20世紀の最も傑出したポーランド人の一人、第二次世界大戦の英雄、諸民族の中の正義の人、アメリカ合衆国市民、イスラエル名誉市民、そして今日一般的な定義によれば、「ホロコーストを押しとどめようとした人間」であった彼に敬意を捧げましょう」。

ヤン・カルスキに関するすべての行事は、「ヤン・カルスキ年」(企画:ポーランド史博物館〔ワルシャワ〕)のプログラムとして実施される。

ヤン・カルスキ(本名ヤン・ロムアルト・コジェレフスキ)― 1914年4月24日〔ウッチ〕~2000年7月13日〔ワシントン〕

戦間期のポーランドで、大学の法学部、外務省研修所、士官学校を卒業。大戦勃発後捕虜となるが、首尾よく脱走して、地下活動を始める。完璧な記憶力と諸外国語の知識を有する彼は、ポーランド地下国家の政治密使の義務を託された。

繰り返しフランス行きの特命を帯びた彼ではあったが、ついに、ゲシュタポに逮捕されてしまう。暴力的な尋問を受けた後、さらなる拷問を受ければ、ポーランドの地下運動に関する重要情報をドイツに暴いてしまうかもしれないと怖くなり、自殺を図った。助け出されて、刑務所病院に収容されたが、ポーランド軍事闘争連盟の援助で連れ出された。

1942年、ヤン・カルスキの名(その後彼は、常にこの名を用いることになる)で、新しい使命を果たすべく、英国と米国に出発した。彼の主要な任務の一つは、連合国軍に、ドイツ占領下におけるユダヤ人の悲劇的な情報を伝えることだった。関連情報を集める途上で、2度にわたってワルシャワ・ゲットーとイズビツァの中継収容所(ユダヤ人はそこから絶滅収容所に移送されていった)に侵入した。

現場を目撃した者のみが知る戦慄の事実を、多数のアメリカとイギリスの政治家・ジャーナリスト・芸術家に伝えた。英国政府の外務大臣、アメリカ合衆国大統領にも面会した。しかしながら、密使たる彼が行った、ユダヤ民族を救済すべしとのアピールは成果をもたらさなかった――対話を行った相手の多数は、彼の報告を信じないか無視したのだった。

ヤン・カルスキは、戦後、亡命者として米国に残る決断を下した。大学で政治学を学び、ワシントンにあるジョージタウン大学で博士号を取得した。その後さらに40年にわたって、母校で国際関係額と共産主義理論の講義を行った。彼の学生の中には、後に大統領となるビル・クリントンがいた。

ヤン・カルスキは数冊の書籍の著者でもあった。1940年に米国で刊行されたポーランド地下国家の活動についての著書(『私はホロコーストを見た(原題:秘密国家の物語)』は、すぐにベストセラーとなり、多くの外国語に翻訳された。

生涯の最後の20年間、ヤン・カルスキは「遂行されなかった特命」に立ち返った。アメリカ、イスラエル、ポーランドの集会で、戦争中のユダヤ民族大量虐殺について、この悲劇に対する全世界の関心をかき立てようとした自らの試みについて、繰り返し物語った。

ヤン・カルスキは、権威ある賞を数多く受けている――「諸民族のなかの正義の人」の称号、ポーランド内外8つの大学の名誉博士号を授けられ、白鷲勲章(ポーランド最高の国家勲章)を受勲し、イスラエル名誉市民となった。自ら、ヤン・カルスキ&ポラ・ニレンスカ賞を設立した。この賞は毎年、ニューヨークのユダヤ調査研究所とワルシャワのユダヤ歴史研究所によって、ポーランドのユダヤ人の役割とポーランド文化への貢献を扱った刊行物の著者に与えられる。

マチェイ・コズウォフスキ著『特使―ヤン・カルスキ物語』に依拠した

出典: www.jankarski.org

「アメリカ合衆国上院、ヤン・カルスキを顕彰する決議」

2014年4月1日、アメリカ合衆国上院は、ホロコーストに歯止めをかけようとした、偉大なポーランド人人道活動家ヤン・カルスキを顕彰する決議を下した。

「アメリカ合衆国上院は、本決定により、偉大なポーランド人の業績への敬意を表すものである。ヤン・カルスキの生誕百周年は、我が国においてはポーランド共和国上院の定めた『ヤン・カルスキ年』として祝われているが、同様の行事は、米国やその他全世界でも行われている」― 在アメリカ合衆国ポーランド共和国大使リシャルト・シュネップフ、この企図の実現に尽力したすべての人々に対する謝意を込めて、こう述べた。

偉大なポーランド人の思い出に米国上院が特別の称賛を捧げるというアイデアを広めるにあたっては、ニューヨークのヤン・カルスキ記念教育財団、ポーランド史博物館が尽力し、その活動を在ワシントンポーランド共和国大使館が積極的に支援した。

http://www.msz.gov.pl/en/foreign_policy/public_diplomacy/the_year_of_jan_karski/ (英語)

 

ヤン・カルスキ年HP(ポーランド共和国外務省作成)

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ヤン・カルスキ年HP(ポーランド史博物館作成)

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ポーランド・ヤン・カルスキ教育財団

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