ポーランドについて

クシシュトフ・コメダ

2011年ジャズ・ピアニスト、作曲家のクシシュトフ・コメダ生誕80周年

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Krzysztof KomedaとDon Ellis(作曲家) "ローズマリーの赤ちゃん"映画音楽録音 

 

2011年はクシシュトフ・コメダの生誕80周年にあたる。クシシュトフ・コメダは医学部を卒業した医者であったが、ジャズ音楽史上に残るカスマ性を携えたジャズ・ピアニスト、作曲家であり、ロマン・ポランスキの初期作品など映画音楽を数多く手がけた。

絶対音感の持ち主であり、幼少期から類希な音楽的才能を発揮。7歳でポズナン高等音楽学校に入学。然しながら、第二次世界大戦の勃発により彼の音楽教育は中断された。

コメダは早い時期からジャズに関心を抱いた。1948年、17歳の時に最初の学生バンドを結成し、スウィングをレパートリーとした。ここで特筆したいのは、当時のポーランドが共産主義政権の支配下にあり、ジャズの演奏は当局によって厳しく迫害されていたことである。コメダも例外では無かった。医学生時代には「帝国主義的な」音楽を演奏するとして監視され、大学を追放されそうになりつつも、何とか卒業し医者となった。以降しばらくの間、ジャズ・ミュージシャンと耳鼻咽喉科の医師という二足のわらじを掃くことになる。

1956年、ソポトのフェスティバルにおいてコメダのユニットはポーランドで初めてモダン・ジャズを披露する。これが大成功し、一夜にしてスターとなった。コンサート数が激増し、その結果ついに演奏活動と医学の両立に破綻を来す。優秀な医師として将来が嘱望されていたにも関わらず、音楽への道を歩み出す。あるインタビューでコメダは「音楽に対する愛情の方が先であり、勝ったことがわかった。」と語っている。

ここでまた特記したいのは、コメダは自身が作曲家であることを中々信じなかったことである。偉大なアーティストに共通の特徴を備えていた、つまりは謙遜家であり、早々に自らの才能を世界に示そうとはしなかった。コメダの妹であるイレナ・オルウォフスカは、子供時代に兄が奏でていた旋律の美しさに、しばしば驚嘆したという。兄の部屋から聞こえてくる、一度も耳にしたことの無い素晴らしい音楽・・・。興奮して「クシシュ(クシシュトフの愛称)、それ、とっても素敵よ。」と駆け寄ると、兄の答えは「ああ、何でもないよ。ただ、適当に弾いてるだけ。」であった。私たちコメダのファンにとって惜しまれてならないのは、コメダが自身の曲を楽譜に書き記さなかったことである。こうして、多くの奇跡のような音楽が帰らぬものとなってしまった。若き日のクシシュトフは、絶えず鍵盤を鳴らしながら、即興し、作曲し、音楽的技法を研鑽していた。唯一の慰めは、こうした彼の最も初期の創作が、こだまとなって後の作品に反映されているかもしれないと考えることである。  

コメダの音楽人生の中で最も重要な瞬間は、当時ウッチ映画学校の学生であったロマン・ポランスキとの出逢いに違いない。ポランスキは自身の初監督作品である短編映画『戸棚の二人』のための作曲をコメダに依頼する。以降、二人の協力は続き、『水の中のナイフ』、『袋小路』、『吸血鬼』に実を結ぶ。コメダが音楽を手掛けた最後のポランスキ映画となる『ローズマリーの赤ちゃん』では、ミア・ファローが実に美しい子守唄を歌っている。後年、ポランスキはコメダについて、「私の映画に価値を与えてくれた。彼の音楽無しではあり得なかった。彼の存在は偉大だった。」と語った。

コメダはポランスキの他にも多くの映画監督と協力している。60作品以上の映画音楽と著名な三部作『アスティグマティック(ASTIGMATIC)』、『スヴァンテティック(SVANTETIC)』、『カットルナ(KATTORNA)』などの独立した曲を数十曲遺した。

1999年にイギリスのジャズ誌『JAZZWISE』が音楽批評家を対象に行ったアンケート調査では、コメダのアルバム『アスティグマティック(ASTIGMATIC)』が史上最高のユーロ・ジャズ作品並びに「世界を震撼させた」CD100枚に選ばれた。

ハリウッドへ発つ前の、コメダの最後となった録音はヨアキム・エルンスト・ブレント(Joachim Ernst Berendt)の依頼による『ジャズと詩』シリーズ用の作品であった。コメダは、1980年並びに1996年のノーベル文学賞受賞者であるチェエスワフ・ミウォシュ、ヴィスワヴァ・シンボルスカをはじめとする、ポーランドの傑出した詩人の詩に音楽を書き、コメダの希望によりアルバムは『私の愛するヨーロッパの祖国』と名付けられた。ポーランドをはじめ、欧州の半分がソ連の体制下にあった時代、このタイトルは、自由な祖国、自由な全ヨーロッパへのコメダの憧憬が表れている。

クシシュトフ・コメダは世界的名声を得る道を歩み出した38歳の若さで、ハリウッドでの不幸な事故から回復すること無く、この世を去った。

コメダは既にその生涯で伝説となっている。デイヴ・ブルーベック(Dave Brubeck)は「私が生涯を通じて知り合った最も偉大なミュージシャンの一人は、ポーランドで出会った。クシシュトフ・コメダだ。」と述べている。ヨアキム・エルンスト・ブレントは、「コメダは20世紀最高の映画音楽作曲家であった。」と語った。また、コメダと共に仕事をした経験のあるドン・チェリー(Don Cherry)は、「コメダとの仕事は、私に恒久的な影響を及ぼした。彼は愛とテイストをもって仕事をする。その音楽は時を超越している。今日聴いても、あの頃と変わらず新鮮で、いつまでも新鮮だろう。」と語った。その言葉の証となるのは、コメダのCDの数の多さであり、その人間性に対する人気であり、伝説の高まりである。

クシシュトフ・バルキェヴィッチ、

 

http://www.komeda.pl/