ポーランドについて

イェジー・カヴァレロヴィチ

Jerzy Kawalerowicz

 


イエジー・カヴァレロヴィッチ Jerzy Kawalerowicz

 1922年1月19日、現ウクライナのイヴァーノ=フランキーウシク州グヴォジヂェツ(1920年から1939年までポーランド第二共和国のスタニスワヴフ県が置かれていた)生まれ。父親はアルメニア系ポーランド人。グヴォジヂェツで幼少時を過ごす。同地は住民の60パーセントがユダヤ人、30パーセントがウクライナ人、10パーセントがポーランド人によって構成される地域で、その後ホロコーストにより壊滅状態となった。
 1944年に一家でクラクフに移住。クラクフ芸術アカデミーと並行して同地の「青年映画学校」で学んだ後、戦後ポーランド映画第一作とされている『禁じられた歌』(レオナルト・ブチュコフスキ、47、未)や『アウシュヴィッツの女囚』(ヴァンダ・ヤクボフスカ、48)の助監督に就く。
 監督クラクフ美術大学卒。数年間の助監督経験を経て、1951年監督デビュー。第一作は、カジミェシュ・スメルスキとの共同監督作『集団』(52、未)。

 1953年、1954年にそれぞれイゴル・ネヴェルの原作に基づく二部作『セルロース』『フリギアの星の下で』の2部作を監督。当時支配的であった社会主義リアリズムの枠を守りながらも、他の社会主義リアリズム映画が陥りがちであった一面的描写やステレオタイプを避けることに成功した。

 いわゆる“ポーランド派”の台頭期には、奇抜な構成の政治スリラー『影』(56)、第二次大戦が一組の夫婦にもたらした悲劇を描いた心理ドラマ『戦争の真の終り』(57)を発表。次いで、様式的に洗練された二本の映画──同じ列車の客室に乗り合わせた二人の男女を中心とした群像劇にスリラー的要素を絡めた『夜行列車』(59)と、悪魔憑きを主題としたイヴァシュキェヴィッチ原作の『尼僧ヨアンナ』(61)を監督。この二本は数多くの賞を受賞し、前者はヴェネツィア国際映画祭ジョルジュ・メリエス賞を、後者はカンヌ国際映画祭審査員特別賞を受賞した。

 概して(アンジェイ・ワイダなどに代表される)当時のポーランド映画の多くが、ポーランドの歴史的運命およびそれと現代史の係わり合いなど、政治的・社会的色彩の濃い作風を好んだのに対し、カヴァレロヴィチはむしろ実存的、心理主義的描写を好み、そうした意味ではある種異彩を放つ存在であった。


 1966年、ポーランド映画史上最良の歴史映画の一本とされるボレスワフ・プルス原作の大作『太陽の王子ファラオ』を監督。この作品はオスカー最優秀外国語映画賞にノミネートされ、大ヒットした。また、1922年に暗殺されたポーランド初代大統領ガブリエル・ナルトヴィチを描いた『大統領の死』(77、未)は高く評価された。第一次大戦勃発時の東ガリツィア地方の小さな街を舞台とし、ハシディズム(敬虔主義)を奉ずるユダヤ人共同体を理想化して描いたユリアン・ストルィイコフスキ原作『宿屋』(83、テレビ放映のみ)を最後として、監督作が広く注目されることはなくなる。また、“壁”崩壊後に撮った作品はいずれも高評価を受けるには至らなかった。


 1955年、製作プロダクション「カドル」の芸術監督となる。ポーランド映画人協会の設立者の一人でもあり、同協会の会長も務めている(1966年~1978年まで。1981年より名誉会長となる)。また、ウッチ映画大学でも教鞭を執った。1976年には、第26回ベルリン国際映画祭の審査員長を務めている。


 1954年から1989年まで、ポーランド統一労働者党の党員だった。1983年には、“連帯”に関係した映画人を批判・役職解任要請する共産党政府の文書に署名し、以後一部の映画監督(ワイダやザヌーシら)と疎遠になった。 私生活では『フリギアの星の下で』『戦争の真の終り』『夜行列車』『尼僧ヨアンナ』に主演した女優ルツィナ・ヴィンニツカ(1928年~)と結婚するが、その後離婚。自作『何のために?』(96、未)の美術を手がけたマグダレナ・ディポンと再婚した。ディポンはほかに、キェシロフスキの『愛に関する短いフィルム』(88)、『トリコロール 白の愛』(94)、ワイダの『コルチャック先生』(90)、『カティンの森』(07)、『菖蒲』(09)といった作品の美術を担当している。
 

 2007年12月27日、ワルシャワにて死去。遺作はヘンルィク・シェンキェヴィチの原作に基づく超大作『クォ・ヴァディス』(01、V)。

 

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