ポーランドについて

アンジェイ・ムンク

Andrzej Munk

Andrzej Munk
Fot. Filmoteka Narodowa

 

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アンジェイ・ムンク Andrzej Munk
 1921年10月16日、クラクフ生まれ。第二次大戦勃発の数ヶ月前にギムナジウムを卒業。ナチスによる占領期にワルシャワへ移住したが、ユダヤ人の血を受け継いでいたために、偽名を用いて建設作業員として生計を立てることを余儀なくされる。1944年のワルシャワ蜂起に参加後、クラクフやスキーリーゾート地ザコパネを渡り歩く。後者では、カスプロヴィ山でロープウェイの駅員を務めた。
 戦後ワルシャワへ戻り、ワルシャワ工科大学で建築を学ぶが病弱のため中退。続いてワルシャワ大学で法学を専攻。その後、ウッチ映画大学に入学。1951年に同校を卒業し、「ポーランド映画新聞」(映画館で本編開始前に上映される、約10分のニューズリール)の撮影を手がけ始め、同時期に自ら監督を務めた短編劇映画や記録映画を数本完成させた。1948年にポーランド統一労働者党に入党したが、1952年に「とがむべき振る舞い」を理由に除名されている。
 ロケーション撮影を用いて半ドキュメンタリー的に山岳救助隊の活躍を描いた中編『白い決死隊』(55)で、ヴェネツィア映画祭金獅子賞を受賞した。この作品は実際に起こった事件に基づいており、その事件に関わった人々(非職業俳優)と職業俳優を混ぜて起用し、彼らに事件を再現させている。
 1956年にイエジー・ステファン・スタヴィンスキのオリジナル脚本に基づく長編第一作『鉄路の男』を発表。翌年よりウッチ映画大学で教鞭を執り始める。その後もスタヴィンスキと組んで長編映画『エロイカ』(57)、『不運』(60)を監督。1961年9月20日、長編第四作『パサジェルカ』(63)の撮影地の一つであるアウシュヴィッツ強制収容所に車で向かう途中、ウッチ県ウォヴィッチ近郊でトラックと正面衝突し死去。享年40。
 死後(1965年)、ウッチ映画大学でアンジェイ・ムンク映画賞が創設された。これは、その年の最も優れた監督デビュー作に毎年与えられる賞である。

鉄路の男 Człowiek na torze    1956年/ 89分/デジタル

列車事故を防ごうとして命を落とした退職鉄道技師の物語をリアリズム・タッチで描いたムンクの意欲作。社会主義政権の自由化進展をうながした1956年の政変〈十月の春〉をとりあげた最初の映画と言われている。当時の若手映画人が崇拝していた「羅生門」や「市民ケーン」にならい複雑な物語構成、パン・フォーカスによる映像等、監督の作家的成熟がかいまみられる一編。

 

 

エロイカ Eroica    1957年/ 87分/デジタル

わずか5本の長編作品を残し40歳の若さで事故死したアンジェイ・ムンクは硬質で無垢な芸術表現、残酷なまでの知的リアリズム、人間に対する深い洞察をもつ作風で、現在もなお色あせることなく多くの作家に影響を与えている。ワルシャワ蜂起の内実と平和な収容所でおこる悲劇を2部構成で描いた本作。“戦争”を主題に扱うことの多い〈ポーランド派〉の代表的な1本である。

 

 

不運 Zezowate szczęście    1960年/ 92分/デジタル

1930年代から1950年代のポーランドを舞台に日和見主義者の青年が語る人生悲話。6回のフラッシュバックにおいて描かれるのは共産主義やファシズム、戦争、抑圧された幼年時代の影響で歴史の犠牲となってしまった悲運な個人の肖像である。ポーランドの作家に時折りみられるロマン主義的傾向を辛辣に風刺した一作。

 

 

パサジェルカ Pasażerka   1963年/ 61分/ 35mm

 アウシュヴィッツ収容所の女看守という特殊な状況下のヒロインを描いたムンクの遺作。作品の大部分を撮り終えた監督が事故死し、残されたフィルムをもとにまとめあげられた。結果、冒頭とエンディングはスチルのみのモンタージュ、収容所の場面はシネマスコープのフィルムという大胆な構成となり緊張感に満ちた映画的効果を生んだ異色の傑作。カンヌ映画祭国際映画批評家連盟賞。

パサジェルカ [DVD] 出演 アレクサンドラ・シュロンスカ、アンナ・チェピェレフスカ、 ヤン・クレチマル (DVD – 2010)

 

 

 


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